いなか伝承社(地域活性化支援)のブログ

和歌山県内各所の農山漁村のファンを作り、土地も含めた「慣習や風俗、信仰、伝説、技術や知識」の次世代への伝承を目的とする団体のブログです。  https://tsuku2.jp/inakadss 

【和歌山市の強烈な教育者・画家『三村行雄』の作品発見】

3月末の私の主宰する古物イベント用に、地域から出てきた大量の絵画の整理もしています(整理前の写真も載せてみました)。

 

その中から、昭和32年制作 和歌山市の『三村行雄』氏の力強いタッチの作品、出てきました。

この方はネット検索してもほとんど情報が出てこないが、非常に教育熱心な図工の先生でもあったよう。

熱心すぎて、「現代奇人伝」という本にその名が残るくらい(詳細は下部参照)

 

日教組が非常に強かった時代に組合と対立していたので、世間的に絵を評価してもらえなかったのか?などと勘ぐってしまう。

 

前回見つけた郷土画家「北喜久子」氏(紀の川市)は収蔵対象外の画家だと言われたけれど、今回は調べたら和歌山県立近代美術館所蔵品目録に有ったので、美術館に残してもらえるか聞いて見よう。

 

#地域のモノを地域に残したい #画家 #教師 #三村行雄 #教育者 #和歌山市 #美術

 

 

『現代畸人傳』は、評論家保田與重郎が昭和三十九年に刊行した図書。戦後の異色人物伝。

京都光華女子大学の研究者「谷口敏夫」による、その本の解釈文より抜粋。

 

現代畸人傳 (保田與重郎 著)より

 

三村行雄 

戦後の和歌山県で小学校の先生をしていた。当時和歌山県日教組の勢力が強く、三村先生の教育観とは大きく異なっていた。三村先生は組合員たることを拒否し孤立していた。生徒達は全県そういう思想の中で教育を受けていた。

 

客観的に振り返るなら、戦前の反動による、極端な左翼系思想が学校教育を席巻していた時代といえる。三村先生は若い頃、休日の放課後に生徒から「川で泳いできてもよいですか」と問われ、「いいよ」と答えた。その生徒はその日、近所の川で溺死した。三村先生はその夜、文鎮を火であぶり自らの頬に押しつけ慟哭した。それは戒めというよりも、悲嘆に耐えなかったのだと、保田のテキストからは読み取れた。

 

三村先生は図工の教師だった。しかし生徒達の後日談によれば、三村先生が生徒たちに写生を勧めたのは、必ず自分たちで育てた花や木、自分たちが育てた動物だったらしい。その生長を写生することに三村先生は意味を見いだしていたようである。その三村先生が、晩年卒業生達と吉野の山に登り頂上で亡くなった。

 

残された若者達は、手を尽くせるだけの卒業生に回状を回し、寄金を募った。四千名から合計四十万円の浄財を得た。一人あたり百円の平均だった。卒業生達は、その資金をもって和歌山の百貨店で三村行雄の回想展を行った。併せて遺稿集も作り配布した。一万部が瞬く間に無くなった。

 

保田によればこういうことができるのは、有名人でない限り、一種の宗教教団でしかできないことらしい。それを普通の青年達があっけなくやってしまった。卒業生達は、三村先生の教育の生涯に何を見たのだろうか。そしてなぜ百貨店を訪れた万をなす人たちが、一教員の死と生涯に感動したのであろうか。

畸人とは所謂奇人変人の風変わりな人物だけをさすのではないと思った。三村先生は、頬に残った火傷あとを人に問われると「若気のいたり」と、つぶやいた人らしいが、おそらく教育、仕事や人生に対する誠実さというものが、若い人たちの幼年期に深い感動、印象を残したのだろう。

作業現場